はじめに
豊かな香りと、苦味のなかに微かな甘さを持っている、深い味わいがある抹茶。
今の時代、抹茶は茶道で味わうだけでなく、カフェやコンビニで売っている飲料、パンやアイスクリームやお菓子など日常的な飲み物や食べ物に幅広く利用されています。
ここでは、抹茶の生産量・歴史・産地について解説します。
そもそも抹茶とは?
抹茶は日本茶の一種であり、「碾茶(てん茶)」というお茶から作られています。
てん茶は茶樹に覆いを被せて育てる「被覆栽培」により作られています。収穫して乾燥させたてん茶を石臼で挽いて微粉末状にされたものが抹茶となります。
抹茶が他の日本茶と大きく異なる点は粉末状になっていることです。
日本茶の種類については、以下の記事で解説していますので、併せて読んでみてください。
日本での抹茶の生産量
全国茶生産団体連合会によると令和2年(2020年)の日本茶の生産量は68,121t でした。
このうち、抹茶の原料となるてん茶の生産量は2,736t なので、日本茶生産に占める抹茶の生産量は約4%となります。飲食物での抹茶の知名度を考えると低すぎる気もしますが、普段一般的に飲まれる煎茶や番茶の生産が日本茶生産のほとんどを占めています。
以下に都道府県別のてん茶の生産量をまとめました。
最近まではてん茶の生産量1位は抹茶の代名詞でもある宇治抹茶の産地として知られる「京都府」でしたが、近年になって茶の生産量を大きく伸ばしている「鹿児島県」が1位となっています。
都道府県 | 生産量 | 主な抹茶ブランドの呼び方 |
---|---|---|
鹿児島県 | 800t | 特になし(かごしま茶、知覧茶) |
京都府 | 622t | 宇治抹茶 |
静岡県 | 455t | 特になし(静岡茶) |
愛知県 | 364t | 西尾抹茶 |
奈良県 | 200t | 特になし(大和茶) |
三重県 | 173t | 特になし(伊勢茶) |
その他 | 122t | ー |
合計 | 2,736t | ー |
抹茶の歴史
抹茶はどのように誕生し、発展していったのでしょうか。茶が中国から日本に伝来したのは奈良時代後期だと考えられますが、茶の粉末を湯の中に入れて飲む抹茶は鎌倉時代に中国から伝来したと言われています。
茶の起源と日本への伝来
茶の起源は、紀元前2700年ごろの中国だとされています。当初は漢方薬の一種として飲み始められたようです。
日本に中国から茶が伝来したのは奈良時代後期だと考えられています。当時、中国は「唐」の時代であり日本からの遣唐使や留学僧たちが唐より茶の種子を持ち帰ったことにより日本に茶が伝えられました。当初は日本でも茶は医薬品として扱われ、貴族や有力層のみが口にしていました。また、唐では当時「餅茶」の形態で茶が飲まれていたため、日本でも同じように飲まれていたと考えられます。
抹茶法の伝来と普及
鎌倉時代の1191年に、臨済宗の開祖である栄西が中国(宋)から帰国した際、茶の種を持ち帰るとともに、茶の粉末を湯の中にいれてかき混ぜる抹茶法を伝えました。当時の将軍である源実朝に茶の効用を述べた『喫茶養生記』を献上するなどして 茶を武家社会に広めました。
南北朝時代には抹茶は一般階級にも普及しました。そして、室町幕府から安土桃山時代に村田珠光(むらたじゅこう)、武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休らによって「侘び茶」「四畳半の茶の湯」といった茶の概念が大成しました。その後、武士階級に普及する中で、侘び茶の精神は「茶道」として発展していきました。
抹茶の産地
抹茶の主な産地について解説します。
鹿児島
鹿児島県の茶業は平安時代末期に、平家の落人が伝えたという説や、鎌倉時代に宇治から茶種子を取り寄せて育てたのが始まりという説などがあります。
江戸時代には島津藩が茶栽培を奨励しましたが、本格的な茶栽培や生産の奨励は第二次大戦後に進められ、また積極的な茶業振興施策は昭和40年(1960年代)頃と、静岡県や京都府など他県の茶業と比べると歴史が浅いと言えます。
鹿児島県での抹茶生産は令和2年に全国1位となっていますが、抹茶生産に特別力を入れたと言うわけでなく、全体的に茶の生産が拡大傾向にあり、その中で抹茶生産も伸びてきています。
鹿児島県の茶生産は、平坦地の茶園が多く機械化が進んでおり、経営の大規模化が進展していることから効率化が進んでいます。
京都(宇治抹茶)
抹茶の代名詞とも言える宇治抹茶は、鎌倉時代に栄西から茶種をもらいうけた明恵が宇治に伝えたのが始まりとされています。南北朝時代の文献には茶の産地として宇治が登場しますが、その頃は京都の栂尾の茶が最上級とされ、宇治茶はそれ以外の茶という扱いでした。
室町時代にかけて、公家や僧の記録の中に宇治抹茶が贈呈用として扱われていたことが出てきます。やがて、室町時代中期には宇治茶が最上級と認められます。
安土桃山時代になると、商人の間で茶の湯が盛んとなり、時の権力者と結びつき、やがて支配者層である大名にも普及します。千利休が活躍し「茶の湯」を確立するのはこの頃です。
江戸時代になると、茶園を経営し顧客に茶を供給する宇治茶師は今の宇治橋商店街を中心として屋敷を構えるようになりました。宇治茶師は江戸幕府から特権を認められ、将軍に献上するため、新茶が採れると良質の茶を壺に詰める作業を行うとともに、それぞれが全国の大名等を顧客に持ち、宇治茶の流通を担っていました。
現代においても宇治抹茶のブランドは広く認知されており、様々な飲食物が「宇治抹茶使用」として流通しています。
静岡
静岡県の茶業は、鎌倉時代に駿河国の僧弁円(聖一国師)が宋より茶種を持ち帰り、現在の静岡市で栽培したのが始まりと伝えられています。
今川、徳川の時代に御用茶として発展し、江戸末期、開国と同時に茶の輸出が始まりました。明治時代になると、徳川慶喜とともに多くの武士やその家族が、江戸から静岡に移り住みました。そして、徳川藩士や川越人足によって牧之原や富士周辺の茶園開拓が始められました。それまで茶生産量が全国で3位でしたが、明治中期には1位になりました。
静岡県も鹿児島県と同様に、抹茶生産に特別力を入れているわけではなく、全体的に茶の生産が多いため、抹茶生産も多くなっています。
愛知(西尾抹茶)
西尾での抹茶生産は、鎌倉時代に実相寺境内に聖一国師(しょういちこくし)が、最初の茶種をまいてからといわれています。
江戸時代までは特に抹茶の生産地として認識されていたわけではなかったようです。生産が本格化したのは、明治時代に入ってからです。茶が商品作物として認められたこと、紅樹院住職が積極的に広めてていったことにより茶生産が拡大しました。
西尾では高級茶の製造を目標にしていましたが、大正時代後期にはてん茶の生産が中心になり、昭和10年前後には県下でトップレベルに達しています。戦前戦後の混乱期を経て、その後、栽培技術や加工技術、設備などレベルアップが急速に進み抹茶の生産地としての現在の地位を確立しました。
さいごに
近年、抹茶は用途が拡大し、日本だけでなく世界でも人気が高まっています。
抹茶の生産量・歴史・産地について本記事では取り上げましたが、実際に抹茶を食べてみて、その用途・産地・質によって変わる味の違いを楽しんでみてください。
もっと日本茶について知りたい方は、全国茶生産団体連合会の「茶ガイド」が参考になるので、是非チェックしてみてください。